孤独のダイアリー3 ~自死家族 - 父の仕事~
配管工の仕事をしていた父
私が中学2年生の頃に、独立して母と二人で経営していました
当時は、全く意識していなかったので経営状況はわかりませんが
独立してからは順調だったように思います
家を建てる人が増え、地域ごとに下水道配管に切り替わり
それもあって仕事には困っていなかったと思います
おそらく私たちが成人してからだったと思うのですが
父と同じような個人業者が増え、受注の叩き合いが始まったようです
安くしないと仕事がもらえない時代に突入したのです
父が50代に入ってから少しずつ仕事が減ってきたように記憶しています
その影響もかなりあり、父は「農業」に移行しつつありました
もともと、お米農家だったので毎年お米は作っていたのですが
父はかぼちゃを作り出荷することをはじめました
この時の家族はというと
「またお父さんがまた勝手にやりめた(怒)」と文句言ってました
父の性格なのか、やりっぱなしなことが多く、ほとんど母に負担がきていたからです
そして母を助けるために私がちが文句言いながら手伝う・・
こんな感じで父の尻拭い?をずーっとさせられてきました
*
住んでいるところはかなりの田舎
小さい集落でもあったので田舎の付き合いって言うのが非常に面倒くさい
他の人がしないこと、変わったことをすると変人扱いで噂される
当時の父に対してもそうでした
テレビで賑わっているパワハラ問題と同じようなことが
小さな田舎町でも当たり前のように起こっていました
反発するのが父でした(笑)
町内の寄りはお酒が入るのでヒートアップして喧嘩する・・
酔っ払い、喧嘩する、大声で暴れる
そんな父が嫌いだったしいつも恥ずかしいと思っていました
でも今振り返ると、父は「改革者」だったように思います
(わかってあげれなくてごめんね、お父さん)
*
当時の野菜の収入は全くわかりませんが
野菜ってギャンブルみたいなもので(私的に)
自然環境に左右されることが多く高値がついたり安値がついたり
うまくいっていたようには思えませんが
しばらくして今度は「玉ねぎ」を作り始めました
そのための設備投資もかなりかかったと思います
いつものことながら「勝手に」なんでも決めてくる人なので
「かぼちゃもお母さんが苦労して作っているのに、その上、玉ねぎまで始めるって信じられない(怒)」
さすがに父に反抗した記憶がうっすらと・・
自分がすること・いうことには口を出すな、絶対な父でしたから
そりゃそりゃ大変な状況になりました
先ほども書いたように
野菜の値段というのはその時の自然環境によって左右されます
豊作って喜ばしいことですが
うちが豊作ってことは、よそも豊作ってことで過剰に出荷されることになります
ということは価値が下がる
全く売り上げにならないということもありました
自然は予測がつかない・・
おそらく、このあたりもうつの引き金になっていったのではないかと
思っています
続く・・